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ジャズと料理と共にドラマチックな夜を「Bar Bar Bar」代表取締役 竹内眞澄さん
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    あらいきよてる

    あらいきよてる

    横浜に詳しいソーシャルデベロッパー。神奈川宿の丘の上で、住宅型複合施設「しぇあひるずヨコハマ」運営 。近年は空き物件や商店街の活性化など、横浜市内外のまちづくりや地域プロモーションにも関わる。週末カメラマン。二児の父でアニメ・サブカル好き。

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    横浜の古い歴史や文化が集まっている関内には、老舗と呼ばれるお店がいくつもある。

    その中でも「ジャズライブレストラン」というジャンルにおいて、現在まで最も長く営業を続けているのが今回紹介する「BarBarBar」だ。
    開業は1984年。横浜ジャズ協会の会長も務めた鶴岡博さんが立ち上げた。

    そしてオープン以来、数多くの音楽グループやファンが訪れ、横浜のジャズシーンを牽引してきた、まさに横浜のジャズバーの代名詞的存在である。
    旧店舗(2023年まで営業)の2階のスペースはその昔「マジック」というディスコであり、まったく別の店だったが、1987年頃に1階と2階をつなぐ螺旋階段を設置。

    1階はバー、2階はライブレストランというスタイルはこのときに完成した。

    豪華で趣きのある店内は、人気ドラマ「ネメシス」や「あぶない刑事」のロケ地として撮影されたほど。外観も印象的で、大きな「JAZZ」の看板と赤く光るネオサインが関内の夜に彩りを添えており、往年の横浜を知る世代にとってはお馴染みの風景だった。
    その後鶴岡さんは2017年に他界し、竹内眞澄さんが代表取締役を継ぐことなった。

    ライブレストランという特性上、2020年代のコロナ禍では、長期間に渡って休業や時短営業を余儀なくされた。
    また時期同じくして、旧店舗のビルの建て替え計画が進み、2023年5月より、現在の尾上町のビルの地下(1階スギ薬局)に移転オープンすることとなった。

    竹内さんは20代の頃、藤木企業グループ会社にいて、金沢区で船に車を積み込む陸送の仕事をしていたという。

    野心家の竹内さんは、30代で何をするべきか考えた末、飲食の道を志すことに。
    ところが29歳という年齢で業界未経験では、飲食店はなかなか雇ってくれなかった。
    そこで相談したのが高校時代の大親友の松崎さん。実は鶴岡さんの息子さんとも幼馴染だった。

    「BarBarBar、人募集してるらしいよ。」

    と教えてもらい、詳しくは知らなかったものの、面接に向かった。

    本当は料理人になって居酒屋を開きたかったという竹内さん、2〜3年経験を積んだら独立しようと考えていた。
    そのため面接のときには、BarBarBaに入ったらマネージメントや経営を学びたいといって臨んだ。

    1997年の春、飲食未経験ながら無事採用され、キッチン以外は何でもやった。

    「新人は例外なく、真鍮磨きとトイレ掃除(笑)」

    初めはホールのバイトで入り、3ヶ月くらいで社員になるとホールのチーフになり、その後バーテンダーもやった。
    現場の技術よりも、店がどう経営されているのかを中心に学んだ。

    特にお世話になったのは、加治さんという面倒見の良い伝説的な支配人。
    ノウハウの伝授だけでなく、毎日酒を飲みに連れて行ってくれた。

    1階バーのチーフバーテンダーになった頃、先にはもうマネージャーと支配人しかポジションがなかった。上司を蹴落としてまで昇進しようとは思わなかったので、近いうちにBarBarBarを辞めようと考えていたそう。

    そうしたとき、関内駅前のCERTE(セルテ) にあるライブハウス、「Yokohama B.B.street」が新たにバー作る話を聞き、そこの社長から「店長をやって欲しい」という誘いを受けて、将来店を持つための貴重な経験になると退社を決意した。

    BarBarBarの当時の社長鶴岡さんの反応はよくなかったが、いつか店を持ちたいという野心の方が勝った。
    2000年の夏のことだった。

    「ライブハウスに来るバンドマンが、夢を語りながら安く飲めるバーを作るつもりでした。 仕入れまで全部やれるならいい経験になるなと」

    その後、万が一にもBarBarBarに戻ることは考えず、3年弱くらい働いた。

    「じゃん・ぴ」という新しいバーのお客さんは、大半は貧乏なバンドマンで繁忙期には月に800人。ほとんど1人で20席、接客も料理も作る感じで毎日忙しく回していた。

    「すんごい大変だったが、楽しくていい経験だった」

    と竹内さんは、当時をふり返る。


    でも、加治さんがほとんど毎日飲みに来てくれて、その度にBarBarBarに戻ってほしいと言われた。

    当時、その店でブッキング(バンドやミュージシャンの出演予約)できる人は竹内さんしかいなかった。BarBarBarにいた頃も、ブッキングノートを付けたりしながら、自分ならこうするな、みたいなのを考えながらやっていた。
    もちろん、加治さんが支配人のときに仕事しているところも見ていた。

    お客さんの増やし方もテストだと思って実験と経験を重ねた。
    新しい店でも一通りやったし、加治さんの熱烈な誘いを受け「勇退」が頭をよぎった。


    「じゃん・ぴ」に移ってから約3年経った。ずっと戻らないかと誘い続けている加治さんに対し、「社長(鶴岡さん)がいいと言うなら、いいですよ」と竹内さんは言い放った。

    引き抜きでギクシャクして辞めたので、鶴岡さんが良いと言うとは思っていなかった。
    そしたら速攻でOKが返ってきた。

    「『竹内ならいいよ』って言われたって。「えーー」ってビックリ(苦笑)」

    BarBarBarに戻ると、「じゃん・ぴ」の頃よりもグッと給料が上がった。
    竹内さんが戻るとすぐ、前任のマネージャーが辞めてしまい、そのままマネージャーになった。その3ヶ月後に加治さんが退社され、それ(2003年夏)以来、ずっと支配人を務めることとなった。


    お店にとってはブッキングが一番大事だが、戻ってみると結構簡単にブッキングできた。
    ブッキングは、ギャラと客入りとで全然変わってくる。
    野球やイベントがあるかどうかを考慮し、吸い込みがいい日にいいグループを当てる。

    さらに、売上、人数、ギャラのパーセントなど、データをしっかり取って、「捨て日」をなるべく無くすようにした。支配人をやり始めた当時は全部ノートに手書きだったが、今はエクセルを使って管理している。

    竹内さんは自信に満ちた笑顔でこう語る。

    「実は理系の大学出身なんで、数字とかデータを読むのは好きなんですよ。長年積み重ねた貴重なデータ、お金払ってでも欲しい人絶対いると思います(笑)」

    「いいブッキングで、バンドも、お客さんも、売上も良くなる。 選んだのは俺だから。今日はたくさん入ったから色つけるね!って」


    取材の1カ月ほど前の2024年4月21日、旧店舗のビルが解体される前にラストライブが行われた。ちなみに竹内さんは、新店舗に移転したあとに再び旧店舗でライブをするということは考えていなかった。

    主催したのは、横浜国立大学アーバニストスクールという、建築まちづくりの学生を中心とするチームだ。
    関内ならではの「防火帯建築」と呼ばれる特徴的な建築形式、そして長年ファンから愛された、手垢だらけの空間。

    それらをまちの記憶として残すためにプロジェクトが立ち上がり、最終的に「キャロル山崎&皆川トオルQuartet」と、その他大勢のミュージシャンや先生方がステージに加わり、会場はジャズで一つになった。


    ライブが終わったあと、役目を果たした会場はガランとして、少し寂しげだったが、竹内さんやファンの人たちの楽しい思い出話は深夜まで及んだ。お客さんやアーティストさん、様々な人がここに通いつめたことが空間全体から滲み出ていて、建具や装飾を見ているだけで幸せな気持ちだった。

    「螺旋階段がカッコよかった。ちょうど作られたのがバブルの頃だったから、色々造りが豪華だったよね。」

    設計は「酔いどれ伯爵」「491HOUSE」なども手掛けた武井さんという建築デザイナー。

    「家具とか真鍮も、いいものが使われている。とにかく、めちゃくちゃ真鍮を使っていた。そして、手垢が付いていようものなら怒られた(笑)」


    竹内さんは若いとき、本牧、元町、関内、伊勢佐木、野毛あたりを飲み歩いていた。
    学校をサボればすぐ本牧、元町は行けたが、別にバーにそこまで興味はなかった。
    音楽も、モテようと思って少しやってみたがダメだった(苦笑)

    空間でいえば、昔のキャバレーみたいな雰囲気が好きで、元町の伝説のダンスホール「クリフサイド」も高校の頃からお気に入りの場所だった。


    逆に、ジャズを好きになるタイミングを、あんまり意識してなかった。

    横浜はそこらじゅうで流れているので自然と、とのこと。

    ジャズをたくさん研究したわけじゃないので、個人の好みと言うよりも、基本はお店のノリが良くなる曲が好き。
    ビッグバンド系はカッコいいし、お客さんが楽しそうにしているのを見ることで、仕事のやりがい、醍醐味を感じるそう。


    お客さんのもう一つの楽しみは、何といっても自慢の美味しい食事である。

    BarBarBarは、横浜にあるジャズバーの中でも、特に料理に力を入れているお店だ。

    ジャズにはあまり興味がないが、生演奏を聞きながらゆっくり食事をしたいという方でも安心して過ごすことができる。肉料理、パスタ、ポテトのグラタン、どれをとってもオシャレで美味であるが、昔と変わらぬ味付けなのが個人的にとても気に入っている。


    カクテルをはじめ、お酒の種類も豊富なので是非曲の雰囲気などに合わせて注文してみて欲しい。
    旧店舗でのキープボトルのうち100本くらいは、どのお客さんのボトルか分かっていたとのこと。

    ちなみに、竹内さんは普段はカウンターに立つことはないが、この日は特別にバーテンダーとしての姿を見せて頂いた。有難い限りである。


    竹内さんにとって、関内はどんなまちなのか。

    「大人がカッコよく遊べるまちだよね。若い人が、それなりのステータスになったら行くような、憧れのまち」

    そうした中で、BarBarBarの位置づけは、日常使いよりも「いつか行ってみたいお店」

    「よく敷居が高いと言われるけどそれはちょっと違う。でも多少の品格は必要」

    「旧店舗の頃、まず2階でライブを何曲か楽しむでしょ?そのあと女の子と1階のバーでゆっくり飲み直すとかね、カッコいいなって」

    料理も接客も、他のジャズバーに比べると、高いレベルのものを提供しているので、デートはもちろんのこと、プロポーズや商談でも利用するお客様がいる。

    いつも賑わっているように見えるBarBarBarだが、若い人、30〜40代ももっと取り込んでいかなくては。と竹内さんは言う。

    老舗と呼ばれ親しまれていたジャズの名店、山下町の「ウィンドジャマ―」が50年以上の歴史に幕を閉じるなど、特にここ最近、変化が激しくなっていると感じているそう。

    だからこそ「ジャズを横浜の文化財に」と思いがより強固なものとなり、新店舗への移転と、その次の挑戦へと竹内さんを掻き立てている。


    竹内さんからは、身だしなみやポージングから、カッコいい大人の品格が漂う。

    そして、これまでの人生のいきさつや、幾度となくお店で演奏されてきたライブは、まるで映画のような、ドラマチックな内容ばかりである。

    「こういう運命だった (笑)」

    あまりにも劇的な展開が多いので、ここでは全てのストーリーは書き切れないが、30代の頃には、東京へ進出する別の道もあったという。

    「人生、これで大丈夫という事はない。大変なことの方が多いけれど、毎日、正解が違うのは面白いし、お客さんに喜んでもらうためには何でもやります!」

    竹内さんは嬉しそうに語った。

    また一人でジャズに浸りたくなったとき、誰かと思い出を作りたくなったとき、足を運ぼうと思う。






    Shop info店舗情報

    BarBarBar
    住所
    〒231-0015 横浜市中区尾上町1-8関内新井ビルB1-B
    営業時間
    18:00~23:00(L.O.22:30)
    定休日
    日曜日(連休の場合は連休最終日)
    備考
    ライブ時間 1st 19:00~/2nd 21:00~ チャージ※サービス料10% ※テーブルチャージ550円(税込)/お一人様 ※別途ミュージックチャージ2,750円(税込)~/お一人様を頂戴いたします。
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