- 関内・伊勢佐木町
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小林 璃代子
2000年生まれ、横浜育ち。 横浜市立大学で社会学を学ぶ大学生。人と人がつながるきっかけや受け継がれるものに興味を持ち、冊子制作、イベント企画などをおこなう。高校時代に商店街の人びとに惚れこみ、ローカルフリーマガジン「いきな下町商店街」を制作。現在は実験的な場づくりや地域のアーカイブをおこなう学生団体「下町編集室OKASHI」の代表として横浜橋通商店街を拠点に横浜の下町の楽しみ方を発信している。吉田新田が好き。
同じライターの記事一覧黄金町駅から徒歩約5分。大岡川を渡り、すこし進むと交差点の角にTAKEYAとペイントされた建物がひっそりと佇んでいます。木製の扉をゆっくりと開けるとカランと鈴が鳴り、新聞の上で寝転がる猫をなでるマスターがいつものカウンター席に座っている日常。ここには、ここにしかない時間が流れているようです。
喫茶TAKEYAと言えば、「音楽」「猫」「ナポリタン」。 マスターお気に入りのソウルミュージックが流れる店内で、常連さんたちがなにげない会話をし、鳩時計のようにふと猫のモモちゃんやなっちゃんがニャーと鳴くとマスターがご飯をあげてゆっくりと撫でてあげる。朝はモーニングセットのたまごサンド、昼はお手製ナポリタン。いや、朝からナポリタンをいただくのも粋な楽しみ方。ピンで砕いた氷がキラキラしているアイスコーヒーや、ナポリタンの湯気、スプーンでのせる粉チーズ、あの光景、あの香りがたまりません。
よく通う方々はここに来る理由について、みな口を揃えて「居心地がいいから」「マスターがいるから」といいます。常連さんはもちろん、新参者の私でさえまったりしてしまうこの空間は、一体どのようにつくられたのでしょうか。そして皆が「会いに来る」マスター片岡さんはどのような人生を歩んできて、いまなにを思うのでしょう。
まずは「この土地の記憶」を辿りました。
「ここは昭和20年に両親が旅館を開業したのがはじまり。おじいさんが明治末期頃に千葉から横浜にでてきたのですが、実家が漁師の網元をやっていて屋号が竹家だったので、それを残したみたいです。僕も喫茶店やるようになってから元の名前を継ぎました」
マスターのご両親が旅館屋を開業した戦後すぐの頃は、まだ横浜の市街地中が米軍に接収されていた時代。竹家旅館の場所は免れていましたが、文化や人との関わりの中で「アメリカ」が身近でした。宿泊のお客さんも、ほとんどが進駐軍の兵隊とその相手をする女性の方だったのだそう。
若い頃から喫茶店がやりたかったのだというマスターの思いと、時代の流れとともに旅館業も衰退傾向であったことから、1983年に店内を改装して喫茶TAKEYAとして再スタート。
当時は喫茶店文化がより栄えていた時代。マスターは喫茶店の楽しみ方や空間のこだわりについて、「カウンター越しにいろいろな方と話すのが楽しい。人によって好みがあるのでテーブル席もありますが、うちはカウンター重視です」と語ります。
取材中もお店を訪れるお客さんはみなさんカウンター席へ。「マスターこんにちは、いつものね」という長く営業されている個人店ならではのセリフも。さらにはお客さん同士もなぜか自然とお話ができてしまうような、不思議な心地良さがあります。
この雰囲気についてマスターは「時間のなせる技。作為的にはできないです。自然になすがままこうなった。そういう感じです」と言います。
そこには私たちが「レトロ」だとか、「ノスタルジック」として賞賛しているもの以上の何かがあるような…。
そして空間について語る上で欠かせないのは、壁の至る所に飾られている80年代頃のライブのポスターと店内に流れるソウルミュージック!
音楽を好きになったきっかけには、「バタ臭さ」や「地元のひとのもの」が色濃く残る、文化の発信地としての横浜の姿があるのだそう。
「夜遊びをするようになった頃、ちょうどソウルダンスが流行っていました。当時は横浜から流行る文化というものがあって、ソウルダンスなんかもそのひとつ。僕もソウルに染まってしまいましたね」
「中華街、当時の南京町などに外人バーが何十軒もありました。兵隊さんが遊びにくる場所で、今流行ってるアメリカの大衆文化がご披露される。レコードや映画も、アメリカで発売されて1年ぐらい経たないと発売されない時代ですから東京なんかよりも触れられるのが早かったんです」
誰でも2曲100円で利用できるジュークボックスは最近のタケヤのホットトピック。マスターが選び抜いた曲のリストアップのなかから選曲。立体感のある音響で店内に流れる曲に胸がキュッとなります。
「僕がよく行っていたバーは『リバーサイド』。黒人ばかりが集まる酒場でした。そこの前にちょっとしたフロアがあって踊るんですよ。中華街も元町も本牧も、まだ地元の人のものだったね」
昔の本牧、昔の中華街、昔の元町。
どのようなところが魅力的だったのか、そして現代にどう活かしていけるのでしょうか。
「50年以上前の横浜は…バタ臭かったね。本牧は麦田のトンネル過ぎてちょっといくとあれなんか変わった、となる。バタ臭い。今は人口が増えすぎてしまった感じはするかな。路面電車が走っていた頃の横浜にタイムスリップしたい」
「でも年を取ってこそ都会。ある時期から、まちの中じゃないと住めない人間だって思ったんだ。都会のいいところはまず便利なところ。便利すぎるのは好きじゃないから、ほどほどの便利がいいけどね」
マスターが例に話してくださったのは、近くの歯医者さんとのお話。歯が痛くなった時にすぐに行くことができ、繋がりがあるため、お店の開店時間などに合わせてお願いできたりするのだそう。関係性の上に融通がきくことも個人店の、都会の「ほどよい便利さ」のひとつ。
加えて、居合わせた常連さんが「あとエネルギーがたくさんある気がする。人が集まっているから」と言うと、マスターは「年齢に応じて人間って刺激が必要だね」とつぶやいた。
まだ午前中でしたが、ナポリタンを注文。 美味しさの秘訣はこれもまた「時間」でした。
「ずっとつくっているうちにだんだんこういう味になりました。歌をうたっている人が20年、30年経つとうまくなるでしょう?そういうのと同じだよ。20年とか30年とかつくるとだんだんおいしくなる。いきなりこうやったから、ではないんだよね」
ナポリタンの他、たまごサンド、焼きサンドイッチも定番メニュー。地元のパン屋、カメヤのパンを使用しています。コーヒーもカウンターでドリップしたものをいただけます。
お休みは年末年始のみ。
「毎日開けていても、仕事と生活が同化しているからストレスがたまったりしないね。いい意味で緊張感ないからさ」と微笑むマスター。
「マスターと知ってるからさ。話もできるし、気楽じゃん。ここくると落ち着くよ、普通の喫茶店に行くよりも」とまた新しくいらっしゃった常連さん。
たしかにタケヤには、マスターの日常の一部分にお邪魔しているような、自然とこちらまで肩の荷が降りるような感覚がある。居心地の良さや何度も来たくなってしまう理由はこのようなところにもあるのかもしれません。
店内には、お客さんからのメッセージが書かれたちいさな落書き用紙や、ファンとして通いながらマスターや猫の写真を撮っている写真家による写真集やカレンダーなどがあり、いかにこの場所が愛されているのかが分かります。
ぜひTAKEYAマスターの片岡さんに会いに行き、「時間がなした技」やこの落ち着く日常の景色に、触れてみてほしい。そして昔の横浜の様子についても、想いを巡らせてみては。